教育改革実践家 藤原 和博教育改革実践家 藤原 和博

20年前に描いた教育改革の姿が
ようやく形になり始めていますよ

「自分の言葉」を発信できる若者を育てる
それが教育の原点です
教育改革実践家
藤原 和博

社会の仕組みを学ぶ「よのなか科」の創設、学習塾と連携した補習「夜スペ」、そして「PTAの廃止」――。次々と常識を覆す改革策を打ち出し、「和田中の奇跡」と、いまも広く語り継がれる公教育改革がかつて東京都であった。新しい時代の教育を掲げ、2020年に学習指導要領の大幅改定を控えるいま、主体的な学びで生徒の思考力や表現力を育てた、その公教育改革が再び注目を集めている。一連の改革を指揮したのが、都内初となる民間出身の公立中学校校長を務めた藤原和博氏。自らを「教育改革実践家」と称する。


「教育改革実践家」を自称する藤原氏は、「情報編集力」を身に付け、
これからの時代を生き抜ける生徒の育成に使命感を抱く。

教育改革実践家としての藤原氏の仕事は、シンプルかつ明確だ。主体的な学びを通じた生徒の「情報編集力」の育成――。藤原氏による数々の教育改革は、行き着くところその目的に収斂する。過去に校長を務めてきた杉並区立和田中学校や奈良市立一条高校での挑戦も同様。それらの挑戦は、今教育界が模索するアクティブラーニングの嚆矢ともいえそうだ。

 20年前から言ってるんです。これからの時代、義務教育で育むべきは、生徒の「情報編集力」だって。従来の教育は、存在する正解を覚えさせる「情報処理力」偏重の教育でした。しかし、社会に出て直面する問題に、たった一つの正解なんてありません。変化の激しいこれからの時代には、そもそも問題に正解があるかもわからない。そんな時代に求められるのは、情報を組み合わせ、仮説を出していく力。それが情報編集力です。

 和田中で創設して話題になった「よのなか科」は、まさに情報編集力を育成する取り組みなんです。住み慣れた地域の課題や時事・社会問題など、生徒が身近に感じる世の中の出来事を題材に、正解のない問題を考える。その後、一条高校でも導入しましたが、その際には、生徒個人のスマホを持ち込む試みも行いました。編集した意見を発信する習慣もつけさせたかったんです。現場の抵抗は大きかったですよ。授業風景は大きく変わりますし、なにせ世界で初めてのことですからね。しかし、情報編集力の育成には不可欠な挑戦でした。

 一般的に勘違いされているのは、「知識を詰め込んでいけば、コップから水があふれるように自然と意見がほとばしり出てくる」と思われていること。そんな美しいストーリーなんてあるわけがない。「覚える」のと、「意見を言う」のでは、使う脳が別なんです。いくら覚えても、発信する機会を与えなければ、豊かな思考力や表現力は育たない。今の生徒はスマホを発信装置として使いこなしていますから、これを使って年に一千回、一万回と意見を発信させればいい。大事なのは慣れることなんです。思考力や表現力って、外から教えることができないんですよね。生徒自身が経験から学びとるしかない。

教育改革実践家としての藤原氏の仕事は、シンプルかつ明確だ。主体的な学びを通じた生徒の「情報編集力」の育成――。藤原氏による数々の教育改革は、行き着くところその目的に収斂する。過去に校長を務めてきた杉並区立和田中学校や奈良市立一条高校での挑戦も同様。それらの挑戦は、今教育界が模索するアクティブラーニングの嚆矢ともいえそうだ。
現場の抵抗にも関わらず、世界で初めて授業に個人のスマホを持ち込んだのも藤原氏。
多忙な日常の「すべて」をスケジュール帳に書き込むという藤原氏。
ほとんど余白がない紙面からは、大胆な改革の中に見え隠れする緻密な計画性が垣間見える。

常識を打ち破る改革とは、必ずや周囲の反発や抵抗を伴うものだ。藤原氏の教育改革も例外ではない。そんな状況をいかに打開し、改革を実現させてきたのか。藤原氏には、ひとつの流儀があるという。

「シンボルのマネジメント」と言っているんですけどね。私のやり方は、変えるべき現状を「最も象徴している部分はなにか」「事態を動かすツボはどこか」、それを見極め、そこから手を付けるんです。和田中の時もそう。学校が閉鎖的だということのシンボルとはどこか。それは「校長室」でしょう。まずは、そこを文字通り、大胆に開放しました。「扉が開いていたら、いつでも誰でも入ってきていいよ」と。そうして、改革のメッセージを発信したんです。

 生徒と交流している姿を積極的に見せる。すると、私を見る周囲の目が変わってくるんです。「現場感覚あるな」「単にビジネス振りかざして、“改革”を押し付けてくるわけじゃないんだ」と。

教育現場でのICT活用にしてもそう。まずは、職員会議から変えました。

 タブレット端末を全員に支給し、インタラクティブなコミュニケーションを教員自身が体験し、その意味を実感してもらいました。使い慣れていない教員の拒否反応は大きかったですよ。ただ、取り組みが一旦動き出したら、あとはその成果を戦略的に伝播させること。例えば、「一度の職員会議で使っていた1500枚の紙がゼロになった」といった具合に。改革の成果を実際に見せて、「お、いいじゃん!」という感覚が口コミで広まれば、取り組みに勢いがつきます。和田中でも一条高校でも起こったことです。

 改革には「物語」が必要なんですよ。

藤原氏は学校の閉鎖性を象徴する校長室を、まずは大胆に開放してみせた。
数々の改革を自ら先導した藤原氏。
一条高校において、開放された校長室で生徒の人気投票を試みた「制服刷新プロジェクト」もそのひとつ。

畑違いの教育現場に飛び込み、独自の流儀で数々の挑戦を繰り返してきた藤原氏。多くの抵抗や反発を招きながらも、教育改革に情熱を捧げる教育改革実践家としての原点は、実は民間時代の挫折にあった。

 リクルートという会社で営業マンとして20代を走り抜けた私は、幾つもの新らしい取り組みで成果をあげ、課長、次長、部長、本部長と一気に上り詰めました。ところが、30歳を過ぎたあたりで、過労の末にパンクしちゃったんですね。「メニエール病」という原因不明の難病にかかってしまい、急な眩暈で日常生活にも支障をきたす状態になってしまって。しばらく後遺症に悩まされ、それが人生を考え直す転機になりました。

 その後は働き方を大きく変え、「40代以降の人生をどう生きるか」「自分は日本の社会を変えるためにどんな貢献ができるのか」を真剣に考えました。37歳でヨーロッパに拠点を移したのも、今後、到来するであろう成熟社会で、自分が果たすべき役割を考えるためでした。そこで考え抜いた末、人生を賭けるテーマとして選んだのが、公教育改革だったんです。だから、40歳で会社を辞めました。

 当時、子どもがまだ幼く、義務教育を控えていたことも、公教育に問題意識をもった理由の一つでしたね。結局、私の公教育改革は自分の子どもには間に合いませんでしたが(笑)。でも、日本の公教育改革はようやく、成果が見え始めていますよ。私のつくった「よのなか科」がモデルとなり、アクティブラーニングの必要性がようやく認知され始め、指導要領も変わった。

 20年前に描いた教育改革の姿が、ようやく形になりはじめています。

15年の改革の歩みが成果を見せ始めた今、藤原氏の視線は、公教育の理想形をはっきりと見据えている。

周囲の期待と懐疑の中、民間人校長に就任して教育改革の緒に就いてから15年。長く現場の第一線で活躍してきた藤原氏の視線の先に描かれている理想の教育とは、どのようなものなのか。

「自分自身の言葉」を紡ぎ出して、意見を述べられる若者を育てる。それが教育の原点だと思います。今の高校生って、うっかりすると「やべー」「微妙」「フツー」「まあまあ」、この4語ですべての会話が済んじゃうでしょ。この言語力を上げていくこと。それが情報編集力をアップする第一歩です。

 一方で、標準的な知力を持った日本人を育てることも公教育の役割だと思うんです。日本は、世界で初めて「上質な普通」の国民をつくり上げた国。

 時速300キロで走る新幹線の運行を秒単位で管理できる国。どんな場面でも標準的なサービスが受けられ、ほぼ間違いなく交わした約束が守られる国。それが日本という国なんです。そんな国柄を支える「上質な普通の日本人」を育てるには、ある程度高い情報処理力も必要です。

 従来の教育現場は97%が情報処理力、3%が情報編集力の育成でした。これを7:3くらいのバランスにするのが、日本にとって理想的な教育の姿でしょうね。

自分が果たすべき役割を考えた末
人生を賭けるテーマに選んだのが、教育だったんです

藤原 和博(ふじはら かずひろ)
藤原 和博(ふじはら かずひろ)
藤原 和博(ふじはら かずひろ)
プロフィール

1955年、東京都生まれ。1978年に東京大学経済学部を卒業後、株式会社日本リクルートセンター(現:株式会社リクルートホールディングス)に入社。東京営業統括部長、新規事業担当部長などを歴任し、株式会社メディアファクトリー(現:株式会社KADOKAWA メディアファクトリー)を立ち上げる。1996年からは株式会社リクルートのフェローに。欧州に拠点を移し、新しい社会事業を摸索するなかで、教育改革の必要性を痛感。以後、教育界に舞台を映し、数々の改革を成し遂げる。2003年、東京都杉並区立和田中学校校長に就任。5年間の任期を務める。大阪府特別顧問、武雄市特別顧問を経て、2016年から今春まで奈良市立一条高等学校校長。
 詳しくは「よのなかnet」に。

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